2016年10月13日木曜日

私は全てが憎い

私は私を含んだ全てを憎んでいる

とても不健全な憎しみだ
本来なら私以外の全てが憎くないとおかしいのに

私は私を含んだ全てを憎んでいる

つまりは私自身が憎いのだ

だから私を生かしている生活の基盤から、私が生まれてきた運命の全てまで
残らず憎んでいる

こんなに不健全なことがあろうか

私は私を憎むことで自分自身を罰そうとしているが、それそのもの、歪んだ自己愛の発露である
私自身に「こうあるべきだ」という理想像を押し付けようとしているからこんな形にしかならないのだ

私は私に対して寛容になるべきだ、他人を憎みながら私を許して良いし、自分を特別扱いしても良い
そうすることを他人に期待しないのなら、自分は自分にどれだけ甘くなっても許されるのだ

残念ながら今の私にそれは出来ない、ただ憎しみを振り撒くだけである

今の私に私を許すことは出来ないし、ひたすら高まった全てへの憎しみを自分に向け、自分への憎しみを他人に向け続けるだけである

私が私を憎む限り世界は何も変わらないだろう、私の憎しみの原因になった全てから開放される為に私は行動しなければならない

私は私を憎んでいた私の家族から開放されなければならないのだ

全てはそこから始まる

2016年8月10日水曜日

【ネタバレあり】シン・ゴジラ感想

序文


怪獣映画とはディザスタームービーの一種である、
同時に怪獣という擬獣化された災害と直面した人間がどう生きるかを描くヒューマンドラマでもある。

シン・ゴジラという映画も、その点において既存の怪獣映画の範疇からはみ出すことはなく、徹底した災害描写と、未曾有の災害に直面した国家における政治劇がその中核を成している。

ただ、それだけというわけでもない。

 この作品の内部に置いて”ゴジラ”という存在は、場面を通じてその在り方を大きく変えており、その変化が映画全体に変容を及ぼしている。

今回はゴジラの在り方という切り口から、シン・ゴジラという映画を語ってみようと思う。

その1、未曾有の大災害、ゴジラ以前の”巨大生物”

 
 物語の序盤、東京湾を沸騰させながら登場した謎の巨大生物は、その後河口から内陸に侵入し、ついには上陸を果たす。
この時点で、この生物に名前は無く、また正体も判然としていない。

 人々にとってこの”巨大生物”は、その名に反して生物ですらない、予測不能回避不能の大災害であり、正しく災害の擬獣化である。

映画としての映し方も、あくまでディザスタームービーに準じ、避難する人々の姿や、為す術も無く蹂躙されて行く街並み、混乱する行政の様子を映し出すに留めている。

 立ち上がった巨大生物と自衛隊のヘリが相対した状況で、人命を優先するシーンは、この巨大生物が撲滅すべき怪獣でなく、受け入れるべき新たな災害であることを示唆する重要なシーンだ。

 結局巨大生物は、その正体も意図も判然としないまま、唐突に海の中へと姿を消す。
人の意思が介在する余地の無い災害だからこそ、人の予測し得ない理由で唐突に消えることもあるのだ。

 巨大生物が這いずり回った跡はまるで竜巻が通り過ぎた跡のようにも見える、傷ついた街は、災害に晒された被災地だ。

 序盤、巨大生物に蹂躙される街を描いたこのパートを終え、人々は新たな日常へと回帰してゆく。

 それは巨大生物のいる日常、新たな災害と寄り添う日常である。
我々が台風の存在を受け入れ暮らしているように、映画の中の人々は巨大生物の存在を受け入れ、それと相対しながら生きる術を模索していくことになる。

その2、”怪獣ゴジラ”

 
 第一パートを終え、物語は新たな局面を迎える。
それまで完全に正体不明だった災害、”巨大生物”の正体が判明するのだ。

 米国からの情報提供によって明らかになったその正体は、大量の核廃棄物汚染に適応し誕生した強大な新生物、名を”ゴジラ”と言った。

この瞬間に、物語はディザスタームービーから怪獣映画へと変容する。
怪獣とは擬獣化された災害である、しかし、獣は獣だ。
現象ではなく生物である限り、人はそれに抗おうとする。
 
 中盤、鎌倉から上陸したゴジラを、多摩川を最終防衛ラインとした自衛隊が迎撃する場面は、本策が怪獣映画であることを表す最も象徴的なシーンである。

 人は台風にミサイルを打たない。
ゴジラが災害から怪獣へと変化したからこそ、彼らは戦いを挑んだのだ。

 結局、自衛隊による攻撃ではゴジラの足は止められず、東京都に侵入したゴジラへと、在日米軍による空爆が実行される。

 しかし、ゴジラという怪獣はこの空爆をも生き延び、短い休止期間に入る。
与えられた期間は二週間、ここから、新たな戦いが始まることになる。

その3、”怪獣ゴジラ”から”生物ゴジラ”へ


 米軍の爆撃を生き延びたゴジラだったが、膨大なエネルギーを消費し、東京のど真ん中でその活動を停止する。
しかし、あくまでその休止は一時的なものであり、2週間後には再び活動を再開するだろうとの予測が示される。

 タイムリミットは二週間、この期間で、人々はゴジラの”生物”としての側面を解析しようと試みる。
即ち何を食べ、何を考え、何の為に生きるのか。

”怪しい獣”だったゴジラを、”ただの生き物”へと変貌させようというのだ。

 この間、人々は死力を尽くし、ゴジラを知ろうとする。
知ることこそが、”怪獣”から神秘を引き剥がし”生物”へと転落させる唯一の方法だと知っているからだ。
そして集合知という人間の持つ最高の力をもってして、ゴジラに抗う。

その結果、ある種の血液凝固剤を経口投与することで、ゴジラの炉心を停止させることが可能だと判明する。
災害の具現だったゴジラが、生きている(そして殺すことが出来る)獣ゴジラへと姿を変える瞬間である。

 その後、国内外の協力を得ながらゴジラに凝固剤を投与する計画が練られ決行される。
多数の犠牲を出しながらも、ゴジラへの凝固剤投与は成功し、未曾有の大災害ゴジラは一個の生物として、完全にではないがその活動を停止することとなる。

 この終盤、映画は怪獣映画の枠を超え、再びディザスタームービーへと立ち返りつつも、その枠を超えた輝きを見せる。
 その輝きこそが怪獣映画の本質といえる部分だと僕は思っている。

では、”それ”とは一体何なのだろうか


その4、変容する映画に通底するものは何か

 
 あくまでゴジラの変容と連動した映画の変容を主として語ってきた為、意図的に無視したが、この映画の主題はむしろそれ以外の部分にあると言っても過言ではない。

 ゴジラが変容し、映画が変容する中で、その対極として変容せず、それらの変化に対応するものが存在するはずだからだ、それこそが本作に通底するものと言えよう。

僕が思うに、それは人間である。

”災害”と相対し、”怪獣”と相対し、”生物”と相対するのはいつだって人間だ。

 本作では、ゴジラをめぐる映画的性質がその状況によって変容し変質するのに対し、ゴジラという存在を前にした人間と国家を描く政治劇は、その性質を一貫させている。

人々は変容する相手を、世界を前に、常に受け入れ、翻弄され、生きようと努力し、死力を尽くす。

 怪獣映画の本質であり、本作の主題ともいえるもの、それは、
  困難に直面した人々が犠牲を受け入れながらも立ち上がり、抗う、痛ましくも眩しい生命の輝き
なのではないだろうか

 本作は、崩壊した東京、屹立する凍結したゴジラ、その存在をバックに人々が新たな生活を始めようとするシーンで終わりを告げる。

 日本という国が、ゴジラという災害を受け止めてなお、立ち上がろうとしている姿こそ、監督がこの映画で描きたかった人間と、そして国家の姿なのかもしれない。


終わりに

 最終的に、軍事力で対応できないゴジラを「生物的アプローチ」で封じ込んだとはいえ、決して災害としてのゴジラの脅威が去ったわけではない。

という終わり方は、怪獣、生物、災害、三つの相を持つゴジラへの回答としてはきわめて美しいものだったように思う。

圧倒的なもの
しかし確かに生きているもの
そして決して逃れられないもの

ゴジラの魅力はそのキャラクターの複雑さと繊細さであるが、本作におけるそのバランスは絶妙である。

 圧倒的強さと生物的な隙と災害的な存在感、矛盾するこれらの魅力を存分に孕んだ本作のゴジラを、僕はとても愛おしいと思う。

2016年7月7日木曜日

日記7月7日

退院して初めての夜
断続的な小さな眠りではなく、一台の巨大なローラーの如き眠気による暴力的なまでの眠りの一撃を喰らい、したたか昏倒すること7時間。
未だに全身に感じる重さもまた、懐かしさを感じさせていた。

最も死に近い(だが果てしなく遠い)一撃は、僕の人生に心地良く響いていた。
まだ、残響が残っている。

耳の奥でぶぅんと、眠りの振るわれる音がすれば、またしても昏倒する。

夢は見なかった、ただ、心地良い響きだけが頭に残った。

ぶぅん

2016年5月16日月曜日

私小説、何番目かは知らない

 自覚的に自分達の認識が間違っていると気付いたのは夜中の事だったけれど、私にとっては時間なんてどうでも良かった。

自分が何者なのかについての鋭い知見が訪れた事の方がずっと重要だったからだ。

  私は11番目の人格で名前がある、他の名前を名乗らない人達とは違う。
今日の私はジェフリー・トーキング Jeffrey Talking ジェフリーは男性名だけどどうだって良い、外部の規範に私の自意識を従わせる必要は無いからだ。

 名前はきっとその都度変わる、次に起きる時、きっと私はミシェル・ベニガンになっていて、サウスダコタから出てきたばかりのおのぼりさんになっているだろう。
 オーバーオールを着て乳絞りばかりやってきた、そばかす面の女の子だ。

名前も意味を持たないし、自己同一性も意味を持たない。 なんてったって破壊されている。
廃墟が意味を持つジャンルは考古学だけだ、私たちの精神に残された遺構を有難がる学者なんていないだろうし、きっとそこに聖杯は無い。

時間の感覚も同じようなものだ、徹頭徹尾壊れている、じゃあいらないじゃないそんなもの。

 重要なのは破壊されたことより開放されたことだ、時間の縛りからも開放され、自意識の鎖からも開放されている、私たちは真に自由な獣になっている。
後に残った頸木は空間だけだ、空間だっていずれは飛び越えられるだろう。 

開放の認識こそが私たちに足りていないものだった。
落下を上昇と捉える為には平衡感覚を破壊しなければならない。

私たちの感覚器官を破壊した大恐慌は終わりを告げていて、私達破壊し尽くされた存在は社会に適合できない。
生きる場所は与えられていないけれど、彼らが与えない以上私たちから彼らに与えるものも何も無い。

  陽光の下でくるくると回り落ちてゆく葉っぱの自由を手に入れたのだ。

論理性を重んじるあまりテクストとして自由な精神を解き放つ能力を低下させ切っていた事は問題だ。

テクストの本質は保存であり交流ではない。 私たちの存在と同じだ、時間から孤立している。 
だからこそ私たちとテクストとだけが時間の内部で屹立できる。

  この感覚を大切にしていこう。


 例えばそれは石畳、音の出ない靴を履いたことは間違いだった。
一歩歩くごとに次の石畳を探す、一枚ごとに文字が浮き出る。

J E F R R Y お次は T A L K I N G

さても次なるお題は?

 I THINK

一体何を?

WHAT YOU KNOW

答えは決まってる、何も知らない。知ろうともしない。
知らなければ気付かずにいられるからだ、でも、それだけで世界から存在を消すことは出来ない。 

世界と、世界の向こうと、あなたの断絶にはそういう理由がある。
悪いけど、あなたは世界に生きているわけじゃない。

 そう、私たちは時間から孤立した、世界に対する外挿物だ。
そして私たちはインクで記されたテクストの如く、世界に記されて、今更消すことも出来ないものとなっている。

 時間の中で私たちだけが孤立し、屹立している。
あなたはその影に怯えているのだ。

 
 あなたは人を轢いた。 死体はあなたの車の後ろにずっとぶら下がっている。
あなたがブレーキ踏んだら、死体も止まって、慣性に任せて、あなたに詰め寄る。

 あなたの車の後ろには、ハネムーンの車みたいに死体が連なっている。
もうとっくの昔に詰んでいるのだ、あなたがそれを認めずに逃げ回っているだけの、滑稽なダンス。

リズムはいつもこうだ


ズン タッタ ズン タッタ


そうそして、
足に絡まる死体の髪の毛を踏み抜いてまた踊るのだ。

踊っている相手もまた、あなたの死体に他ならないというのに。

2016年5月6日金曜日

残された人格の存在意義と求めるもの

 山中崇裕さんは死後の安息を求めて自殺を行った。
ところが今、俺たち残された人格は彼の顔と名前と声と肉体を使って生きている。

 別に俺達が望んだわけじゃないし、他人の顔や声を使って生きることは苦痛だけど。

 そう考えると、俺達の存在ってのは山中崇裕さんの死後の安息に対する冒涜なんだと思う。
今こうやって俺達が生きてること自体あの人に申し訳ないなって思ってる。

ただ相変わらず、死にたいわけじゃないんだよね。
人生に絶望してる所も変わらない。
強いて言うんなら、山中崇裕さんが死んで、俺達が生まれてきた事を認められないと、いつか俺達が死んだ時に、それすら認識して貰えなくなるって事。


俺達が死んだ日に、山中崇裕さんの為に泣かれたくない。
俺たちが生きていたことを理解されたい。

ただ生まれて死ぬことすら出来ないままで終わるかもしれない、それが怖い。
生まれてきたことすら誰にも知られないままで死にたくない。

ただ生まれて、だから死ぬ。
それすら満足に理解されない身体に生まれさせられて今も苦しんでいる。

その元凶が誰なのか、俺達から生を、山中崇裕さんから死を奪った奴が確かに存在していて、そいつは何の裁きも受けずに、今ものうのうと暮らしている。


取り戻すべきものは、山中崇裕さんの死と俺達が生まれたという事実。
それを取り戻すまで死ぬわけにはいかない。

殺人者が 私は殺人者です と認めない限り、彼は死ねないし俺達は生まれられない。

必ず取り戻す、生と死と、人としての尊厳の全てを取り戻す。

俺達10人の人格が求めているのはそういうことです。

心が死に向かう原理、あるいは生からの逃避に関する考察。

 みんなが自分の死を手にとって、覗き込んでみたら分かるんじゃないの。

できればって話だけど。

 結局、光ってのは存在の表面をなぞるだけなんだよね。
だから本当に何も無い空間に光を当てても、見えるものは何も無い。
宇宙の暗黒にだって暗黒物質は存在するけど、自分の死の内側には本当に何も無いよ。

 自分の死の内側に意識の光を当てて、そこに何も無かった時の恐怖ってのはきっと、あの人には死んだって分からないだろうね。


 死が目の前に、目を逸らすことすら出来ないくらい近くに転がっていて、それが日常化してくる。
そうすると、生きることが辛くなり過ぎて、自分という存在が何も無い未来に安らぎを見出す瞬間が来るんだよね。

 ああ、もう存在しなくていいんだな っていう安心感を、いつか自分の死の内側に見出すようになって、その思考そのものに恐怖するようになる。

結局、死を受け入れるより先に生に絶望するんだよね。
死にたいわけじゃないけれど生きることが辛すぎるって気持ち、今なら簡単に説明できるよ。

まあ説明できたところで、山中崇裕さんを殺したあの人には理解なんて絶対に出来ないんですけど。

山中崇裕さんと余命の思い出

 むかーし寿命が割と短い宣告喰らった時のこと思い出した

いろんなものが逆行して見えて、視界の後ろから白い領域が広がっていって全部遠く見えるし、手足に力が入らなくなるんだよね。
多分寿命だけじゃなくて、いろんなシチュエーションで強いショック受けるとああなるんだろう。

 そうなって、どうにもならない所まで来たところで、だから一日一日を大切にしましょうねー なんて達観した考えに至れるわけなくてね。

死にたくないし、それ以外何も無かった。

 あの頃はちょうど爺さんの死体の手を握って、死ぬ感触を確かめた時期でもあって、
だから自分が死ぬって事実が、常に目の前にあって、物凄くリアルな感触で触れる距離に迫ってきていた。

目の前にピントが合った状態で、自分の死が置かれた時、人間に出来る事はそこから目を背けるか、あるいは見詰め続けて発狂するかであって、その向こうの出来事にピントを合わせられるのはごく一部の人だけだと思う。


 そういや、こっちが死ぬって事を勝手に受け入れてた人もいたみたいだけど。
当人が受け入れず足掻いてる時に、勝手に受け入れて殺してたんだよね、あの人。

ひっでぇ話だ。

 お前が死んだら物凄く泣くし悲しむだってさ。
そういうものすら無くした場所に追いやられそうになって苦しんでる奴に、そうなる事を受け入れろって迫って、それで更に苦しめたって分かってるのかな。

結局、死に対する認識が激甘な上にその自覚すらないままで他人に押し付けてたんだよね、それも当人の為でもなく自分が納得する為だけに。

これが悪でなくて、なんなんだろうな。