2014年11月9日日曜日

題名未定の時代小説 第一話 東風 その3

東風 3/9
その4


 刹那、轟々と鳴いていた風が吹き止み、天つ風に乗って雲が月を覆い隠す、
心地よい静寂に浸ろうと目を閉じた真之介の耳に、女の呻き声が聞こえたような気がした。

「誰かの逢引だろうか」

一人呟く、あるいは押し込みの強盗が農家に押し入り、娘に狼藉を働いているのかもしれない。
純粋な興味と義侠心から、真之介は声が聞こえた方へと足を向けた。

 夜道を真っ直ぐに歩いて行くと、朽ち果てた農家らしきものが見えて来る。
恐らく既に棄てられた場所なのだろう。
夜の闇の中でも、萱の葺いた屋根からは草が生えている様子が見て取れる。
(商家の若旦那あたりが、下女と逢引でもしているのだろう)


 苦笑を浮かべ立ち去ろうとした真之介の足が、ぴたりと止まった。
違和感を感じている。
闇と、風と、夜気の遮る先から、何かの気配がするのだ、そしてそれは、

(獣ではない……)

 嘗ては一流の剣客であった彼の研ぎ澄まされた感覚が、その存在を確かに捉えていた。
それは紛れも無く人間である。
そしてその何者かの存在が、それの放つ独特の“匂い”が、真之介の心をも捉えて放さないのだ。

有り体に言えば、“殺気”と呼ばれるものなのだろう。
長く剣から遠ざかっていた真之介にとっては懐かしくもあり、そして今も変わらず忌わしい気配でもある。

撥弦、直後、風を切る音。

意識がそれを認識する前に、身体が勝手に飛び退った。
闇から闇へ、しゅっという小さな音だけを残して何かが飛び去って行く。
冷や汗が噴き出した。

更に撥弦、続けざま二回。

横っ飛びにその場を離れ、倒れこむようにして地面に伏せる。
先程まで真之介のいた場所で、小さく火花が散って、天高く何かが宙を舞った。
それは夜半に吹き荒れる寒風に運ばれ、偶然にも真之介の目の前に落ちてくる。
 
からりと音を立てて地面に転がったそれは、一本の矢であった。

鏃から矢羽まで炭を使い真っ黒に染められている、夜に人知れず殺しを行う為のものだ。

風に乗り聞こえた弦の鳴る音に身体が自然と反応した。
素早く起き上がり、真之介の身体が矢の飛来する方向と平行に走り出す。

(あの建物には何かがある)

進路を遮るようにして地面に突き刺さった四本目の矢を見て、疑念は確信に変わった。
(覚悟を決めねばなるまい)


 風の強い日である、空の上では尚更だ。
月を覆い隠した雲が過ぎ去り、月明かりが夜に満ちて行く。
廃墟の傍らに、山辺を背にして、大きな柿の木の影が浮かび上がってきた。
(間違いなく賊はあそこにいる)

真之介の移動が円を描く軌道に変わった。
円の中心は柿の木、上体はぶれずに、下半身だけが俊敏に動く独特の歩法で、夜半の空気を切り裂いて疾駆する影が真之介だ。

動きが逸れ、渦を巻く軌道に変わり、ゆっくりと柿の木に近付いて行く。
これは持久戦だ、相手もそれを分かっている。
だからこそ、無駄な矢を射ずに、必殺の時を待っているのだ。

真之介は自らの顔が笑みを浮かべていることを知らない、彼はこの緊張を、命を賭けて行う至高の遣り取りを間違い無く楽しんでいる。

彼の胸の内で、忘れかけていた何かが動き出していた。

それは遠く空の彼方に流れた羊雲にも似て、素早く形を変えながら全てを置き去りにして動く何かだった。

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