2014年11月9日日曜日

題名未定の時代小説 第一話 東風



第一話 東風 作 自転車


 東風吹かば  にほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ
                              宝物集 巻第二


 年も明け立春が過ぎ、未だ寒い睦月は雨水の夜を、梅の香を乗せた風が通り抜けていった。
時刻にして虎の刻、今の言い方をすれば午前3時と言ったところだろう。
 
天満宮や八幡神社で名高い亀戸もはずれにくれば江戸の僻地、広大な耕作地に、ぽつぽつと農家や廃屋が見えるばかりの閑散とした風景が広がっている。

 街道から外れた場所に流れる小さな小川の畔に、一人の男が佇んでいた。
総髪に結った髪が筋骨の張った身体の上に据えられ、何処か垢じみた袷を身に纏い大小二本の刀を腰に差した様は、侍のようにも見える。

名を、岡田真之介と云う。

 岡田真之介は浪人である、父もまた浪人であり、祖父は何処かの藩に仕えた旗本であったと聞いている。
岡田家が江戸に移り住んだのは父の代であり、主家の廃絶に伴い仕官先を求め江戸に登ったが、当時の幕府の方針により士官さえままならず浪人に身を窶したのだった。

浪人とは主家を失った武士のことを言う、江戸においてもそれは変わらない。
名字帯刀さえ許されているものの、主家からの扶持(給料)さえ無い彼らの暮らしぶりは町人と寸分違わぬものであり、世事に疎く商才に欠ける彼らの困窮ぶりたるや、想像に難くないだろう。
 
 真之介の父、精之介もそんな浪人達の一人であった。
精之介は仕官先を探しながら本所深川の裏長屋で暮らし、日々の糧を得るために様々な仕事を身につけた。

 水を運び傘を貼り、時には油を、時には炭団を背負い売り歩いた。
商才は無く愛想も良くはなかったが、情に篤く実直な人柄であり、長屋の連中からは精さんと呼び慕われ、貧しいながらもそれなりの暮らしを送っていた。

博打も打たず女も滅多に買わぬ、日に数杯の僅かな酒を楽しみとしながら暮らす父のもとに母が嫁いできたのは、精之介二十二歳の春のことである。

真之介は母を知らぬ。
真之介が生まれてすぐに病没したと聞いてはいるが、顔も、名も、声さえも憶えてはいない。
ただ幼き日に、父に母の事を訪ねた折見せた苦い表情だけが、真之介にとって母を表す唯一の記号であった。


 真之介が数えで七つになった年に、父は町道場へと彼を連れて行き、彼にこう言った。
「ごらん、立派な道場だろう、いいかい真之介お前は剣の腕を磨くんだ、
剣の腕一本でここれだけ立派な道場の主になれるんだよ、
腕が立ちゃあお城にだって入れるかもしれない、そうなりゃ士分、紛れもない武士だ」
 
道場の中から響く門下生達の気声に押し包まれながら真之介が頷くと、父は静かに微笑んだ。

「俺みてえな“もどき”になっちゃいけねえよ」

 一心不乱に木刀を振る男達の背中を見ながら小さな声で呟いた父の言葉が、今も真之介の耳こびりついて離れないのは、その顔に張り付いた微笑と、その目の奥に宿る深い悲しみを、幼いながらに感じ取っていたからだろう。

 父の言葉通り、真之介は剣の修行に没頭した。
最初は武士の息子でありたいと思い、そして父を武士の父親にしてやりたいとの強い願いからだったが、時が経つにつれて、それだけではなくなっていった。

真之介自身が、剣を知ることに魅せられていたからだ。

剣の先に相手を見遣る時、また向けられた剣の先にいる己を深く知ることが出来る、その感覚がより、真之介を剣の世界へと引き込んでいった。

 真之介は元服を迎えると同時に、長谷川一伝流の皆伝を得た。
父を一人残し諸国を漫遊する武者修行、とは行かなかったが、厳しい修行と日々の雑事の合間を縫い、江戸の街に数多ひしめく町道場へと赴き他流試合を重ねていった。

多くの剣友も得た、長谷川道場に岡田在りとのささやかな名声も得た、己が剣の腕がひとかどのものに成った事をひしひしと感じていた。


 父、清之介が卒中で倒れたのは、そんな満たされた日々を送っていた真之介が十八歳を数えた夏のことであった。
幸い一命は取り留めたものの、中風を患い、起き上がった時には満足に働くことすら叶わぬ身体となっていた。

 医者にかかれば金が飛ぶ、薬を買えば金が飛ぶ。

働けなくなった父の分まで、真之介は身を粉にして働いた。
木剣を振る暇さえなく仕事に忙殺される日々を送るうち、真之介の中から、いつしか剣への情熱が消え失せていた。

否、名声と栄光への渇望から目を背け続けるその苦しみに、あるいは心の内の何かが壊れてしまったのかもしれない。

自然、剣友とは疎遠になり、道場へ足を向ける事すら無くなっていった。


 ただ、生きることに追われる四年の歳月が過ぎ、真之介が二十二歳になった早春の夕べに、清之介は息を引き取った。
眠るように、静かな最期だった。

真之介は、泣くことが出来なかった。
取り乱すことすらなかった。
感情を殺すことに、慣れ過ぎたのだろう。

 長屋の精さんが亡くなったと聞きつけ、多くの人々が駆けつける。皆、何かと二人の暮らしを支えてくれた恩人達だ。
涙を流し父の亡骸に手を合わせる彼らを見ながら、真之介は泣く事すら出来ぬ自らを恥じ、悔しさを噛み締めた。

人の良い大家の計らいで、ささやかながら父を弔うことは出来たが、亡骸を納める墓だけはどうすることも出来なかった。
筵に包んだ父の亡骸を背負って家を出たのは、ほんの数刻前のことである。


 亀戸の街道から外れた小高い丘に父の亡骸を埋め、河原から運んできた一抱えの大きさの石を置き、卒塔婆の代わりに木剣を地面に突き立てる。
(まるで俺の人生への墓標のようだ)
そんな想いが真之介の中には芽生えていた。

真之介は決して路頭に迷ってはいなかった、仕事も得ることは出来るだろう、親身になって支えてくれる人達もいる。
ただ、人生に標を見出すことが出来なくなっていた。

情熱を失い、感傷を失い、家族を失い、
(今の俺に何が在るのだろう)
行く場所さえ知らず、真之介は歩き続けた。

 冷え切った空気は澄み渡り、空は満月の光を余す事無く湛えている。

頭の中には言葉に出来ない感情が渦巻いているが、それが何なのかを思い出すことが出来ない。

 思いは千々に乱れ、無数に広がる星の如く散らばって、瞬いて、
 言葉は風に流され、木っ端の如く儚く、彼方へと吹き過ぎて行き、

過ぎ去った時間と取り残された自分を思い、夜空に一つ浮かんだ羊雲を見上げては、真之介は己の姿を重ね合わせるのだった。

土埃が舞い寒風吹き荒ぶこの場所は、どうにも自分に似過ぎている。

小川のせせらぐ音を聞き、真之介は道を離れた。
流れる水に触れ、その冷たさを感じ、漸く自分が生きていることを思い出せた気がした。
夜気に晒され冷え切った身体が、思い出したように震えだす様が、どうにも可笑しくて笑みが零れた。

 月明かりに煌く川面の先は闇に包まれている。
夜明けの光はまだ遠く、そして何故か恐ろしいもののように思えた。


 刹那、轟々と鳴いていた風が吹き止み、天つ風に乗って雲が月を覆い隠す、
心地よい静寂に浸ろうと目を閉じた真之介の耳に、女の呻き声が聞こえたような気がした。

「誰かの逢引だろうか」

一人呟く、あるいは押し込みの強盗が農家に押し入り、娘に狼藉を働いているのかもしれない。
純粋な興味と義侠心から、真之介は声が聞こえた方へと足を向けた。

 夜道を真っ直ぐに歩いて行くと、朽ち果てた農家らしきものが見えて来る。
恐らく既に棄てられた場所なのだろう。
夜の闇の中でも、萱の葺いた屋根からは草が生えている様子が見て取れる。
(商家の若旦那あたりが、下女と逢引でもしているのだろう)


 苦笑を浮かべ立ち去ろうとした真之介の足が、ぴたりと止まった。
違和感を感じている。
闇と、風と、夜気の遮る先から、何かの気配がするのだ、そしてそれは、

(獣ではない……)

 嘗ては一流の剣客であった彼の研ぎ澄まされた感覚が、その存在を確かに捉えていた。
それは紛れも無く人間である。
そしてその何者かの存在が、それの放つ独特の“匂い”が、真之介の心をも捉えて放さないのだ。

有り体に言えば、“殺気”と呼ばれるものなのだろう。
長く剣から遠ざかっていた真之介にとっては懐かしくもあり、そして今も変わらず忌わしい気配でもある。

撥弦、直後、風を切る音。

意識がそれを認識する前に、身体が勝手に飛び退った。
闇から闇へ、しゅっという小さな音だけを残して何かが飛び去って行く。
冷や汗が噴き出した。

更に撥弦、続けざま二回。

横っ飛びにその場を離れ、倒れこむようにして地面に伏せる。
先程まで真之介のいた場所で、小さく火花が散って、天高く何かが宙を舞った。
それは夜半に吹き荒れる寒風に運ばれ、偶然にも真之介の目の前に落ちてくる。
 
からりと音を立てて地面に転がったそれは、一本の矢であった。

鏃から矢羽まで炭を使い真っ黒に染められている、夜に人知れず殺しを行う為のものだ。

風に乗り聞こえた弦の鳴る音に身体が自然と反応した。
素早く起き上がり、真之介の身体が矢の飛来する方向と平行に走り出す。

(あの建物には何かがある)

進路を遮るようにして地面に突き刺さった四本目の矢を見て、疑念は確信に変わった。
(覚悟を決めねばなるまい)


 風の強い日である、空の上では尚更だ。
月を覆い隠した雲が過ぎ去り、月明かりが夜に満ちて行く。
廃墟の傍らに、山辺を背にして、大きな柿の木の影が浮かび上がってきた。
(間違いなく賊はあそこにいる)

真之介の移動が円を描く軌道に変わった。
円の中心は柿の木、上体はぶれずに、下半身だけが俊敏に動く独特の歩法で、夜半の空気を切り裂いて疾駆する影が真之介だ。

動きが逸れ、渦を巻く軌道に変わり、ゆっくりと柿の木に近付いて行く。
これは持久戦だ、相手もそれを分かっている。
だからこそ、無駄な矢を射ずに、必殺の時を待っているのだ。

真之介は自らの顔が笑みを浮かべていることを知らない、彼はこの緊張を、命を賭けて行う至高の遣り取りを間違い無く楽しんでいる。

彼の胸の内で、忘れかけていた何かが動き出していた。

それは遠く空の彼方に流れた羊雲にも似て、素早く形を変えながら全てを置き去りにして動く何かだった。


 朽ち果てた農家の前庭というのは、往々にして荒れ果てているものだ。
地面は窪むし、小石も転がる。
その場所を賭ける真之介の草鞋が、そういった障害の一つに足をとられたのも必然と云えよう。

足元をとられた身体が流れ、上体が慣性に従い前にぶれる。
上下半身のずれを是正すべく腰が浮き、後方に取り残された重心を取り戻すべく足が止まる。

この姿勢の崩れは致命的だ。

そしてこれこそが、賊の狙う必殺の間合いにして必殺の瞬間。
引き絞られた弓が弾け、風よりも速く矢が放たれる。
弦の鳴る音は先程よりも遥かに近い。

身を沈めた真之介が、崩した姿勢のまま腰に差した刀を抜き打ったのは、音が聞こえるそれとほぼ同時のことであった。


 暗闇の中で飛来する炭染めの矢を切り捨てる事など、およそ人間には不可能に思える所業だ。
事実、賊はそのようなことは考えても見なかっただろう。

だがそれを、岡田真之介は難なくやってのけた。
数年来離れていた筈の剣の業は、凍夜に映えた月光の如く冴え渡る。

 恐らく彼自身、ここまで身体が動くとは思っていなかっただろう。
長年積み重ねた鍛錬と研鑽は、四年の月日を越えなお彼の身体の中で燠火の如く燻り、再燃の時を待っていたのだった。


弓を放てば必然、次の矢を番えるまでに隙が出来る。
真之介はこの時初めて直線の軌道を描き柿の木に猛進した、そのまま速度を緩めること無く、木の幹に思い切り身体をぶつける。

 頭上で枝葉の揺れる音が鳴り響き、朽ちて乾いた渋柿がぼとぼとと落ちる中、黒ずくめ黒尽くめの装束を着て黒い頭巾を被った男が降ってきた。
咄嗟に受身を取ろうとする男の身体を踏みつけ、抜き身の刀を深々と鳩尾に突き立てる。
男は悲鳴も上げず、大きく身体を痙攣させた後に息絶えた。

刀を抜くと、びゅうと返り血が噴き出してくる。

冷え切った身体に浴びる人の血潮は熱く、土埃にまみれた身体に湿り気を与えてくれるようで、真之介にはそれが不快であるよりも、むしろ心地良くさえ感じられたのだった。


 柿の木の揺れる音に感づいたのか、廃屋から二人の男が飛び出してくる。
人数にして二人、それぞれの手には刀が握られている。

真之介は刀を正眼に構えた。
月の光に、その刃がぬらぬらと光って揺れる。
相対する男達はそれぞれ上段と逆八双に構えこれに相対する。
白刃の煌きは各々の放つ殺気の様によく似ていた。

 男達は刀を構えたまま、それぞれ間合いを測りながら右回りと左回りの円を描き真之介の周囲を回り始めた。
どちらかに注意を払えばどちらかが死角に入る。
周到な殺しの手段であり、定石にして穴の無い戦術だ。

 剣の戦いは間合いを制したものが勝利する。
間合いとは距離であり、距離とは時間であり、時間とは速さだ。
即ち空間を支配した側が圧倒的に優位に立つ。

真之介の使える空間は僅かであり、それは時間と共に狭まって行く。
この状況で時間をかければかける程、真之介が不利になって行くのは目に見えていた。


 真之介はおもむろに構えを解いた、正確には正眼から脇構えに切り替えたのだが、左側にいる男からはそれが見えない。
逆八双に構えた刀で袈裟に斬りかかろうとして男が右足を踏み出す。

その瞬間、脇に構えた刀を真之介が左手一本で振り抜いた。

居合い、あるいは抜き打ちの要領である。
刀の届く間合いは両手で身体の正面を向けた男より、半身で片手に刀を持った真之介の方が僅かに長い。
地を這う軌道で半円を描いた切っ先が、男の脛を断ち切った。
忽ち男がもんどり打って倒れる。
乾いた地面に、飛沫を描いて血潮が飛び散った。

 無防備になった右半身を狙い、もう一人の男が大上段に唐竹割りを繰り出す。
真之介が刀を返すより、男の刃が脳天を割るほうが速いだろう。

真之介は迷わず、刀を捨てて男の前に飛び出した。
死中に活を見出す心、その身を刃に晒すことこそが剣の心であり、一種の境地でもある。

大降りで振り下ろされる刀のその根元、太く鍛え上げられた男の左手首を真之介の右手が掴んでいた。
僅かに届かなかった刃に触れ、総髪に結った真之介の髷が解け、垂れて落ちる。

いつの間にか男の腰に伸びていた真之介の左手が、その腰に差した脇差を抜き取り男の腹に突き通す。
男は頭巾に開いた穴から、零れ落ちんばかりに両目を見開いて絶命した。

空気は冷え切っている。

 振り向くと、脛を断ち切られた男は血溜まりを残して何処かに消え、父の形見である同田貫だけがぽつんと、夜の闇と月の光に取り残されていた。

(どうせ大した事は出来まい)

投げ捨てた刀を拾い上げ、懐紙で血と脂を拭い鞘に納め歩き出す。
廃屋の中からはまだ女の呻き声が聞こえている。
左手に自らの脇差を抜いて構え、廃屋の闇の中へと摺り足で踏み入っていった。
 

 廃屋の中は暗く、そして埃の臭いに満ちていた。
朽ちた木と、土と、そして先刻までいたであろう男達の汗の臭いが僅かに感じられる。

土間の隅、かまどの横にずた袋が横たえてあった、ぐねぐねと蠢く様はさながら大きな蛭にも似ている。
恐らく呻き声の主はこの中だろう。

「暴れるな、今袋から出してやる」

袋を上から肩を叩き、小柄を取り出して袋に切れ目を入れる。
そのまま左右に引っ張ると、袋はびりびりと音を立てて二つに裂けた。

 袋の中に放り込まれていたのは若い女だった。二十歳より若く見えるが、女の歳を顔で判別できるほど、真之介は女に通じているわけではない。
猿轡をかまされ手足も紐で縛められているからか、未だに身体をもぞもぞとさせている。
縛めを解いてやるとようやく落ち着いて、身体を揺するのを止め埃臭い空気を肺一杯に吸い込み、そして吐き出した。

「怪我は無いか?」
立ち上がり膝を叩く娘の顔を見下ろして真之介が訪ねると、娘も顔を挙げ真之介の顔を見上げた。
ふっくらとした顔は垢じみたところが無く、育ちの良さを感じる、着ている着物も錦に織られ見るからに高価だ。
見上げる娘と目が合った、僅かな怯えと、安堵の入り混じった表情を浮かべ、こちらを見ている。

そして……眼が泳いだ。

黒目がちな瞳が、真之介の肩越しに何かを見ている。
形の良い唇が歪み“あ”の形を作ろうとしていた。
それは警告だ。

振り向きざまに真之介が投げ打った小柄が脛を断たれた男の眉間に突き刺さるのと、
廃屋の階上から放たれた炭染めの矢が男の脳天に突き立ったのはほぼ同時であった。


「危ない!」
娘の警告の声が闇の中にこだまする。
真之介が傍らに置いた脇差を手に取り構えた。

(まだ、この暗闇の中に何かがいる)

真之介ほどの達人であってもその気配を感じられぬ程の何かだ。
と、闇の中、遥かに高い梁の上から、ひょいと放り出されたものがある。
廃屋の出入り口から差し込む光の中に落ちたそれは、黒漆で塗られた短弓と三本の黒い矢に見えた。

「怪しいものでは御座いません、どうか刀をお納め下さい」
またしても若い女の声だ、だが後ろの娘ではない、闇の中より聞こえてきている。
「何者だ、姿を見せろ!」
暗がりに潜む何者かに向かって真之介が叫ぶ、無論、この状況で刀を納めるほど御人好しではない。

暗闇の中で何かが光った。
二つ並んだそれは、人の目の様にも見える。
その二つが“ぱちくり”と瞬いてから再び闇に消え、とん、と、軽い音がを立てて土間の片隅に土煙が舞った。

明かりの中に現れた者は、黒装束に黒い頭巾を被っている。

(矢張り賊の仲間か)

真之介の身体に緊張が走り、脇差を握る手に力が篭る。必殺の間合いにはまだ僅かに遠い、あと二歩、せめて一歩でも踏み込めれば勝機はある。

しかし黒装束は思いもよらぬ行動に出た。
顔を隠す頭巾を剥いだのである。


 頭巾の下から現れたのは女の顔だった、しかも随分と背が小さい。
「この通り、決して怪しいものでは御座いません、私は御休息御庭番の美奈と申します」

真之介は驚いた、まず顔を隠す頭巾を脱ぐということは自らの素性を晒すことに他ならない。
悪党であるならば顔を隠すか、顔を見た者を皆殺しにするかのどちらかで対策を講じるものだ。
次いで、この女の名乗りにも驚かされた。
御休息御庭番いえば将軍直属の間諜であり、伊賀者の血を引く生粋の忍者集団でもある。

「どうか刀をお納め下さい、私は貴公の後ろにおられます方を追って参ったのです」
女の言う事が真実とも思えぬが、女の行動の意図は測りかねる。
真之介が目だけで背後の娘を見ると、娘は確かにこちらの目を見て、静かに頷いたのだった。

一先ず真之介も脇差を納める。
ただし、その爪先には力が籠められており、いつでも一足飛びに相手の身体を抜き打ちで払えるよう備えてある。

「先程も申し上げました通り、私は私は御休息御庭番の美奈、卒爾乍ら貴公の御名前をお聞かせ願いたい」
「某は本所深川が素浪人、岡田真之介と申す」

「岡田様、此度の御活躍、しかと拝見致しました、貴公の後ろに在らせられるは将軍様が第三子、美菜姫様に御座いまする」

 一瞬の静寂が訪れた後、真之介は全身が粟立つ感覚に襲われ、そして反射的に土下座の姿勢をとっていた。
これは武士の性であり、江戸に生きる全ての人間に刷り込まれた本能でもある。

武家社会において無礼とは礼の仕方一つを間違えただけでも無礼打ちにされかねない行為である。
ましてや将軍家の姫ともなれば最敬礼である土下座の姿勢をとるのは極々自然な反応と云えるだろう。

「暫し待て」

埃の舞う土間に美菜姫の声が響く、それだけで凛とした空気が張り詰めた。
美奈が姫に何事かを囁いているのが聞こえたが、何を言っているのかは聞き取れない。
土間の土を見詰めながら、真之介は自分の首筋に冷汗が伝っているのを感じていた。


「よい、面を上げい」

真之介は頭を上げることが出来ない。このような状況に置かれたことは、当然だが無い。

「上げよと言っているのだ、岡田真之介」
「はっ!」

腹の底から声を挙げ、真之介は上体を起こした。
背すじに金棒でも打ち込まれたような畏まった姿勢だ。

「美奈より聞かせてもらった、其の方の此度の働き、大義であったぞ」
「有難き幸せ」
真之介は再び頭を下げるが、再び起こせと命ぜられる。

「して、何が欲しい?」
「は?」
「褒美じゃよ、ほ・う・び、此度の働きに対する返礼じゃ」

 真之介はきょとんとしてしまった。
まさかこのような所に姫がかどわかされているとは思いもしなかったし、それに対する褒美が在るなど考えてもいなかった。

「金子か?それとも仕官の口利きか?お主の望む物を何でもくれてやる、これは妾からの個人的な礼じゃ、遠慮せず何でも言うがよい」

真之介は考えた、己の望むものとは何なのだろうか、と。
仕官、父を武士の父親にしてやりたくて目指していたそれも、父のいない今となっては虚しいものに感じられた。
金子も違うだろう、身に余る金を得たとて、使い道すら思いつかぬ。

今、真之介の求める唯一のものは、剣への思いだけであった。
それは煮詰まり、どろついて後ろ暗く、熱く、切実なまでに痛烈で。
しかし如何に将軍家の姫であろうと、この渇望を満たすことは出来ないだろう。

「ありませぬ、何もありませぬ」

姫の目が見開かれた。

「なんと、何も無いと申すか」
「姫様の御好意、恐悦至極に御座います。しかし乍、昨日まで病身の父を養うことばかりを追い求め、他に何も思わず、感じず生きてまいりました故、求める物は何も在りませぬ故、辞退申したく候」

「……父は如何なされた」

「死に申した」

「親類はおるのか」

「居りませぬ」

「嫁御は」

「居りませぬ」

「……何ゆえ……何ゆえ斯様な場所に来たのだ?」

「生きる標を見失いましたが故、行く宛も無く彷徨い歩いておりましたところ、姫様の呻き声を聞きつけ馳せ参じました」


 再び、真之介は頭を下げた、
「故に、此度の御提案、辞退申し上げたく……」

「のう、岡田よ」
言葉を遮られ、思わず姫の顔を見上げる。

「死んではならぬぞ」

慈愛の笑みを浮かべる姫から放たれた言葉は、痛烈であり鮮烈だった。
真之介の胸に再び宿った情熱の、その裏側に流れる切々とした死への渇望を、見透かされているような気がした。

「行く宛も無く彷徨えど、お主は妾に辿り着いた、生きる標が在らずとも、命さえあれば、人は何処かへと辿り着けるのだ」

「決して、死んではならぬ、その腕、その心、その剣を、存分に人の役に立てるのだ。そして己が生き方を見つけよ、それこそが父御に対する最上の供養とも云えよう」

真之介は平伏した。
言葉が見つからなかった。
ただただ、頭が上げることが出来なかった。

それは敬意であり、推尊であり、欽慕の情であり、あるいは幼子が母に向ける無上の愛にも似ていた。


「妾はここで迎えを待つゆえ、お主は家に帰るがよい」
かまどの上に腰を掛け、姿勢を崩した姫が真之介に声をかけた。
「此処におっては無用な疑いをされかねぬ…世話役が少々過保護に過ぎるのだ」
「しかし……よろしいのですか?」
「心配には及ばぬ、賊の残党が居ようと美奈が命に代えても守ってくれるだろう」
姫が横目に、黒装束の小娘を見遣る。

「同じ過ちを二度も繰り返す程愚かではあるまい? のう、美奈?」

姿勢を正した美奈の顔面が蒼白に変わった。どうやら此度の誘拐の原因に一枚噛んでいるらしい。

「それでは、失礼仕る」
真之介は土下座の姿勢を崩し立ち上がった。

「くれぐれも、壮健にな」

最期に深々と一礼をして、真之介は廃屋を後にした。


 いつの間にやら、夜明けが迫っている。
山際からは光が溢れ、明けの空を金色に彩り、光に追われるように空の端へと駆け抜けて行く。
役目を終えた満月がほの白い輪郭を覗かせる西の空と、その場所に僅か光る星達も、一刻もすれば全て塗り替えられ春の色をした青空へと変わるだろう。

既に農家からは勤勉な農民達が姿を現し、いつもと変わらぬ、けれども新しい一日の始まりを感じているのだろう。
噂に名高い龍臥梅の香りをのせて、春を告げる東風が江戸の街を駆け抜ける。

目くるめく緊張の連続に、身体は重かったが、真之介の心はどこか軽かった。

一先ず町に帰りひとっ風呂浴びて、深く、深く眠りにつきたい、そういえば、腹も減っている。
家と、そして街への恋しさを感じながら、家路につく真之介を、夜明けの温かい光が照らしていた。




 それから五日後、一人長屋で米を炊く真之介の家に、長屋の大家が訪ねてきた。

降って湧いたように縁談の話が持ち上がっているのだという。

誰かと生きる自身は無かったが、父を失い独り身の辛さが身に沁みてきていた真之介は、
迷いに迷った末、ひと目だけでもと大家に押し切られ、相手の娘と会食の席を設けることとなった。


 いま、大家が仕立ててくれた一張羅を着て、真之介は墨田の畔に建つ料理茶屋の座敷に座っている。

膳を挟んで一人の娘が、顔を赤らめながら節目がちに真之介をちらり、ちらりと見遣る。
初々しい二人に配膳を終え、女中が座敷から下がって行く。

その目がぱちくりと瞬いたことに、真之介は気付かない。

眼前の娘の愛らしさと、それに相対する気恥ずかしさに中てられていたのだった。

不器用な会話をはじめた二人を、花やぐ季節の柔らかな光が照らしている。



 東風凍を解く、ある春の日の出来事であった。






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