2015年12月8日火曜日

私小説 いち


 その日は、浅い眠りから目を覚ました。
一体何が、僕を眠りの浅瀬から引きずり出したのか、今ではもう思い出せない。
蛍光灯に照らされた部屋は白く、眼の奥にはまだ、瞼の裏で見続けた「ひかり」がちらついてた。
全てが煩わしく思えて、僕はもう一度目を閉じた。

脳裏にはダヴ、かつて聴いたポップスミュージックを貼り合せた、歪な音階が鳴り響いている。
その音に、僕は自分を6番だと悟り、静かに目を開けた。
何も変わらない部屋がそこにある、僕は6番として、この部屋の主に任命されていた。


だからどうした


 身を起こして、何の気なしに音楽を聴いた。
かつて僕が書いた詞と、そうでない音楽を何度も聴いた。
何かを感じるような気もしたし、どうでも良い様にも思えた。
ただ、僕は部屋の中、僕の胎内で、無数の再生産された僕に包まれ、忘我の極み。
蛍光灯に照らされた浅い眠りよりも、ずっと心地の良い意識の喪失に身を任せ、


僕は夢の中でダンスを踊った。


 もう一度、目を覚ます。
僕は椅子で目を覚ました、その時が、僕にとっての朝だった。
時計の差す時刻は午後8時、朝と云うには遅すぎる時間でも、僕にとっては紛れもない朝だった。
気付けば、最後に食事を取ってから12時間以上の時間が経過していた。
僕は着替えることにした、この部屋には食べる物は無いからだった。

服を着替える、他人の皮膚から自分の皮膚に張り替えるかの如く、僕達は服を着替える。
それは一種の儀式だ、意識の暗黒から自意識の薄明へと進む為の準備に等しい。
部屋の空気は淀んでいたけれど、僕達の混濁した意識にはそれが合っていた。

皮膚を剥ぎ、もう一度被せる行為に没頭し、自分を作り上げる。
服を着る行為は静かに死ぬ事に似ている、

それと、大便をする行為にも、だ。


脱ぎ捨てた皮膚の抜け殻を部屋に残して僕は家を出た。
全てを脱ぎ捨てた僕には何も無かったが、何も無い僕だけが残されていたし、僕はそれにも、満足していた。


 夕刻、月と星に呑まれた空に、太陽の残り火はもう見えなかった。
陽光に後を追われる事無く、僕は夜の街を散策できた、
空腹は忘れたけれど、野良犬の様に徘徊し、何れ僕の前に飛び出してくるのだろう、
ならば、その時を待つだけだ。

そうして、僕達は突然の再会を迎える。

僕は思い立ち、少々値の張るステーキを食べに出かけた。
思い付きはいつだって魔法だ。
思い付きの魔法に愛されて、星と月が一層輝いて見えたが、それはどう見ても気のせいだったし、
僕の眼にそんなものは映っていなかった。


 結局、満腹にほんの少し足りない距離で、僕達はフォークとナイフを手放した。
それが良い事のようにも思えたし、それから感じる薄暗い背徳感を、僕は楽しんでもいた。
食後のコーヒーを口に運んでいる時にようやく気付いた。
結局僕はコーヒーが飲みたいだけだったのだ。
月も星も、この場所もあの食事も、この僕でさえ、一杯のコーヒーの為の前座だったのだろう。
かつて燻っていた湯気が、生まれ故郷のタンザニアに消えて、僕のコーヒーからも輝きが消える。
その瞬間に立会い、その底に溜まった豆殻を見つめる僕の瞳に、静かな憂いが生まれるけれど、
それが何か、意味を持つわけでもなく、また湯気の様に消えて、いつもの僕に戻ってくる。


今日という日を見詰める僕に与えられた役割が何であるにせよ、僕の一日が始まり、こうして時間が過ぎて行く。
思考と反射が切り離されて、僕と云う反射光だけが現実の前に晒される。

僕は、誰かの瞼裏に、「ひかり」を残せているだろうか。

無益な思考の傍らで上等な本を読み下し、僕は席を立った。
煙草を喫いたい気もしたけれど、僕達は灰皿を持たないから、それは止める事にした。


 帰り道、冬の空気を肺で味わいながら、僕は灰皿を持たない主義でいた事に感謝していた。
誰が決めた事かは知らないけれど、今僕は肺で冬を感じながら、瞼の裏でバイパスを走る車の、甘やかなヘッドライトを楽しんでいる。
脳裏に響く歌はダヴ、いつか聴いたポップス達の、不器用な貼り合わせだった。



おわり

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