2015年12月14日月曜日

私小説 さん

 目覚めは夜明けから遠く、
髪を結う時間はたっぷりとあった。

そう、結びはいつだってこうだ、
「コーヒーを飲みたいだけだったのだ」
そして今日も僕は彷徨い出る、紆余曲折の後にコーヒーを飲む廉い幸せ、その幸せに身を浸す為に。

 月が二つに見える時、僕は一人で歩いている。
緩く降る雨の中では歌も歌にはならない、ただ丘陵に似たカーヴを描いて、誰もいない地面へと落着する。
地面に触れるその瞬間に、緩く結ばれた言葉がほぐれ、はじけ、散逸する。

ああ、せめて土のある場所に、そう思った時にはもう、コンクリートに弾けて飛んだ僕自身の返り血を浴びて、街灯と下で立ち竦んでいる、それも僕だ。

いつだってそうだ、言葉は雨に曝すべきじゃない、静寂が守ってくれるのは、真に黙すべき者だけだ。

 身体は飢えている、肉を食べなければならない、肉、肉だ。
果たして、頭の天辺から爪先まで肉で出来たこの身体が肉以外に何を要すると云うのか。
貧しいならば肉を食わねばならない、富めるならば肉を食わねばならない、人は肉を食い、肉を動かす生き物だ。

 肉を食べる時、人は沈黙する。
肉は誰かの肉でしかない。
沈黙は静寂を呼ぶ、その静寂は、命の静寂だ。
失われたものを思う時、静かに肉を食み、得たものと失われたものの落差に驚嘆し、閉口する。
喋るべき言葉と、喋るべきことなど、この世には無いのかもしれない。

 雄弁な沈黙が僕を包んでいた、ただ、満たされていく身体と、一つ空いた命の置き場に想いを巡らせる。
巡礼は頭から始まり尻に終わる。
なるほど生きるとは糞をすることだ、それを忘れてはいけない。

齧り付いたのもいつかの糞なら、私もいつか、誰かの糞だろう。
全ては明日の朝、コーヒーが待ち受けるが為。

 一杯目のコーヒーは目覚めの味がした。
輪切りのレモンは皮ごと飲み下した。
鮮烈さはとうに失われていた。
店に置かれている、どこにでもあるレモンの味がした。
空がまだ白む前だということは分かった。

 僕は四杯目のコーヒーを飲み終えた。
不味くはなかった、ガンジスの泥水を汲むよりはずっと衛生的で、味も優れていた。

コロンビアと書かれたポップが目に入った。、
コロンビアを思い浮かべようとしたが、南米とアフリカとの間で思考が立ち往生している間に、記憶の錨鎖が切れ、どこかへと流れていってしまった。

白紙の国旗がたなびく、
コロンビア生まれのコーヒーはゆっくりと減っていく。
この一杯はこの時にしかない。

 今が何時かはどうでも良かった
此処が何処かもどうでも良かった
僕の前にあるコーヒーと僕との関係性も曖昧だったが、そいつを飲み干した時には、全てが僕に変わっていた。

飲み終わってみれば、コーヒーはコーヒーだ。

 冬の朝は短い、空が白む前に終わってしまう。
何より短く尊い時間を僕が歩く、それは良い事だ。
どこかで失われた牛の命も、コロンビアで育った豆の命も、全てが失われ、冬の朝が来た。

一本の煙草を、なるべく長く、時間をかけて喫った。
全てが忘却の彼方に帰するまで、煙にまみれていたかったが、そうなるにはもっと永い年月が必要なように思われた。

冬の朝は短い。

 薄ら雨の止んだ路上に自分の身体を置くと、石畳がしゃんと鳴いた。
陽が照る前に帰らなければならない。

その夜の全てが陽光に晒すに繊細過ぎたが、確かに息をしているようだった。
僕は全てを持ち帰ることにした。

 僕と僕の世界が作り出した静寂を、トラックの駆動音が引き裂いて走り去る。
夜明けの足音に背を向ける。

僕は街を後にした。

まだ、僕の中で、夜と、夜の僕自身が、煙のように渦を巻いていた。

おわり

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