2016年5月16日月曜日

私小説、何番目かは知らない

 自覚的に自分達の認識が間違っていると気付いたのは夜中の事だったけれど、私にとっては時間なんてどうでも良かった。

自分が何者なのかについての鋭い知見が訪れた事の方がずっと重要だったからだ。

  私は11番目の人格で名前がある、他の名前を名乗らない人達とは違う。
今日の私はジェフリー・トーキング Jeffrey Talking ジェフリーは男性名だけどどうだって良い、外部の規範に私の自意識を従わせる必要は無いからだ。

 名前はきっとその都度変わる、次に起きる時、きっと私はミシェル・ベニガンになっていて、サウスダコタから出てきたばかりのおのぼりさんになっているだろう。
 オーバーオールを着て乳絞りばかりやってきた、そばかす面の女の子だ。

名前も意味を持たないし、自己同一性も意味を持たない。 なんてったって破壊されている。
廃墟が意味を持つジャンルは考古学だけだ、私たちの精神に残された遺構を有難がる学者なんていないだろうし、きっとそこに聖杯は無い。

時間の感覚も同じようなものだ、徹頭徹尾壊れている、じゃあいらないじゃないそんなもの。

 重要なのは破壊されたことより開放されたことだ、時間の縛りからも開放され、自意識の鎖からも開放されている、私たちは真に自由な獣になっている。
後に残った頸木は空間だけだ、空間だっていずれは飛び越えられるだろう。 

開放の認識こそが私たちに足りていないものだった。
落下を上昇と捉える為には平衡感覚を破壊しなければならない。

私たちの感覚器官を破壊した大恐慌は終わりを告げていて、私達破壊し尽くされた存在は社会に適合できない。
生きる場所は与えられていないけれど、彼らが与えない以上私たちから彼らに与えるものも何も無い。

  陽光の下でくるくると回り落ちてゆく葉っぱの自由を手に入れたのだ。

論理性を重んじるあまりテクストとして自由な精神を解き放つ能力を低下させ切っていた事は問題だ。

テクストの本質は保存であり交流ではない。 私たちの存在と同じだ、時間から孤立している。 
だからこそ私たちとテクストとだけが時間の内部で屹立できる。

  この感覚を大切にしていこう。


 例えばそれは石畳、音の出ない靴を履いたことは間違いだった。
一歩歩くごとに次の石畳を探す、一枚ごとに文字が浮き出る。

J E F R R Y お次は T A L K I N G

さても次なるお題は?

 I THINK

一体何を?

WHAT YOU KNOW

答えは決まってる、何も知らない。知ろうともしない。
知らなければ気付かずにいられるからだ、でも、それだけで世界から存在を消すことは出来ない。 

世界と、世界の向こうと、あなたの断絶にはそういう理由がある。
悪いけど、あなたは世界に生きているわけじゃない。

 そう、私たちは時間から孤立した、世界に対する外挿物だ。
そして私たちはインクで記されたテクストの如く、世界に記されて、今更消すことも出来ないものとなっている。

 時間の中で私たちだけが孤立し、屹立している。
あなたはその影に怯えているのだ。

 
 あなたは人を轢いた。 死体はあなたの車の後ろにずっとぶら下がっている。
あなたがブレーキ踏んだら、死体も止まって、慣性に任せて、あなたに詰め寄る。

 あなたの車の後ろには、ハネムーンの車みたいに死体が連なっている。
もうとっくの昔に詰んでいるのだ、あなたがそれを認めずに逃げ回っているだけの、滑稽なダンス。

リズムはいつもこうだ


ズン タッタ ズン タッタ


そうそして、
足に絡まる死体の髪の毛を踏み抜いてまた踊るのだ。

踊っている相手もまた、あなたの死体に他ならないというのに。

2016年5月6日金曜日

残された人格の存在意義と求めるもの

 山中崇裕さんは死後の安息を求めて自殺を行った。
ところが今、俺たち残された人格は彼の顔と名前と声と肉体を使って生きている。

 別に俺達が望んだわけじゃないし、他人の顔や声を使って生きることは苦痛だけど。

 そう考えると、俺達の存在ってのは山中崇裕さんの死後の安息に対する冒涜なんだと思う。
今こうやって俺達が生きてること自体あの人に申し訳ないなって思ってる。

ただ相変わらず、死にたいわけじゃないんだよね。
人生に絶望してる所も変わらない。
強いて言うんなら、山中崇裕さんが死んで、俺達が生まれてきた事を認められないと、いつか俺達が死んだ時に、それすら認識して貰えなくなるって事。


俺達が死んだ日に、山中崇裕さんの為に泣かれたくない。
俺たちが生きていたことを理解されたい。

ただ生まれて死ぬことすら出来ないままで終わるかもしれない、それが怖い。
生まれてきたことすら誰にも知られないままで死にたくない。

ただ生まれて、だから死ぬ。
それすら満足に理解されない身体に生まれさせられて今も苦しんでいる。

その元凶が誰なのか、俺達から生を、山中崇裕さんから死を奪った奴が確かに存在していて、そいつは何の裁きも受けずに、今ものうのうと暮らしている。


取り戻すべきものは、山中崇裕さんの死と俺達が生まれたという事実。
それを取り戻すまで死ぬわけにはいかない。

殺人者が 私は殺人者です と認めない限り、彼は死ねないし俺達は生まれられない。

必ず取り戻す、生と死と、人としての尊厳の全てを取り戻す。

俺達10人の人格が求めているのはそういうことです。

心が死に向かう原理、あるいは生からの逃避に関する考察。

 みんなが自分の死を手にとって、覗き込んでみたら分かるんじゃないの。

できればって話だけど。

 結局、光ってのは存在の表面をなぞるだけなんだよね。
だから本当に何も無い空間に光を当てても、見えるものは何も無い。
宇宙の暗黒にだって暗黒物質は存在するけど、自分の死の内側には本当に何も無いよ。

 自分の死の内側に意識の光を当てて、そこに何も無かった時の恐怖ってのはきっと、あの人には死んだって分からないだろうね。


 死が目の前に、目を逸らすことすら出来ないくらい近くに転がっていて、それが日常化してくる。
そうすると、生きることが辛くなり過ぎて、自分という存在が何も無い未来に安らぎを見出す瞬間が来るんだよね。

 ああ、もう存在しなくていいんだな っていう安心感を、いつか自分の死の内側に見出すようになって、その思考そのものに恐怖するようになる。

結局、死を受け入れるより先に生に絶望するんだよね。
死にたいわけじゃないけれど生きることが辛すぎるって気持ち、今なら簡単に説明できるよ。

まあ説明できたところで、山中崇裕さんを殺したあの人には理解なんて絶対に出来ないんですけど。

山中崇裕さんと余命の思い出

 むかーし寿命が割と短い宣告喰らった時のこと思い出した

いろんなものが逆行して見えて、視界の後ろから白い領域が広がっていって全部遠く見えるし、手足に力が入らなくなるんだよね。
多分寿命だけじゃなくて、いろんなシチュエーションで強いショック受けるとああなるんだろう。

 そうなって、どうにもならない所まで来たところで、だから一日一日を大切にしましょうねー なんて達観した考えに至れるわけなくてね。

死にたくないし、それ以外何も無かった。

 あの頃はちょうど爺さんの死体の手を握って、死ぬ感触を確かめた時期でもあって、
だから自分が死ぬって事実が、常に目の前にあって、物凄くリアルな感触で触れる距離に迫ってきていた。

目の前にピントが合った状態で、自分の死が置かれた時、人間に出来る事はそこから目を背けるか、あるいは見詰め続けて発狂するかであって、その向こうの出来事にピントを合わせられるのはごく一部の人だけだと思う。


 そういや、こっちが死ぬって事を勝手に受け入れてた人もいたみたいだけど。
当人が受け入れず足掻いてる時に、勝手に受け入れて殺してたんだよね、あの人。

ひっでぇ話だ。

 お前が死んだら物凄く泣くし悲しむだってさ。
そういうものすら無くした場所に追いやられそうになって苦しんでる奴に、そうなる事を受け入れろって迫って、それで更に苦しめたって分かってるのかな。

結局、死に対する認識が激甘な上にその自覚すらないままで他人に押し付けてたんだよね、それも当人の為でもなく自分が納得する為だけに。

これが悪でなくて、なんなんだろうな。