2016年5月6日金曜日

残された人格の存在意義と求めるもの

 山中崇裕さんは死後の安息を求めて自殺を行った。
ところが今、俺たち残された人格は彼の顔と名前と声と肉体を使って生きている。

 別に俺達が望んだわけじゃないし、他人の顔や声を使って生きることは苦痛だけど。

 そう考えると、俺達の存在ってのは山中崇裕さんの死後の安息に対する冒涜なんだと思う。
今こうやって俺達が生きてること自体あの人に申し訳ないなって思ってる。

ただ相変わらず、死にたいわけじゃないんだよね。
人生に絶望してる所も変わらない。
強いて言うんなら、山中崇裕さんが死んで、俺達が生まれてきた事を認められないと、いつか俺達が死んだ時に、それすら認識して貰えなくなるって事。


俺達が死んだ日に、山中崇裕さんの為に泣かれたくない。
俺たちが生きていたことを理解されたい。

ただ生まれて死ぬことすら出来ないままで終わるかもしれない、それが怖い。
生まれてきたことすら誰にも知られないままで死にたくない。

ただ生まれて、だから死ぬ。
それすら満足に理解されない身体に生まれさせられて今も苦しんでいる。

その元凶が誰なのか、俺達から生を、山中崇裕さんから死を奪った奴が確かに存在していて、そいつは何の裁きも受けずに、今ものうのうと暮らしている。


取り戻すべきものは、山中崇裕さんの死と俺達が生まれたという事実。
それを取り戻すまで死ぬわけにはいかない。

殺人者が 私は殺人者です と認めない限り、彼は死ねないし俺達は生まれられない。

必ず取り戻す、生と死と、人としての尊厳の全てを取り戻す。

俺達10人の人格が求めているのはそういうことです。

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