2016年8月10日水曜日

【ネタバレあり】シン・ゴジラ感想

序文


怪獣映画とはディザスタームービーの一種である、
同時に怪獣という擬獣化された災害と直面した人間がどう生きるかを描くヒューマンドラマでもある。

シン・ゴジラという映画も、その点において既存の怪獣映画の範疇からはみ出すことはなく、徹底した災害描写と、未曾有の災害に直面した国家における政治劇がその中核を成している。

ただ、それだけというわけでもない。

 この作品の内部に置いて”ゴジラ”という存在は、場面を通じてその在り方を大きく変えており、その変化が映画全体に変容を及ぼしている。

今回はゴジラの在り方という切り口から、シン・ゴジラという映画を語ってみようと思う。

その1、未曾有の大災害、ゴジラ以前の”巨大生物”

 
 物語の序盤、東京湾を沸騰させながら登場した謎の巨大生物は、その後河口から内陸に侵入し、ついには上陸を果たす。
この時点で、この生物に名前は無く、また正体も判然としていない。

 人々にとってこの”巨大生物”は、その名に反して生物ですらない、予測不能回避不能の大災害であり、正しく災害の擬獣化である。

映画としての映し方も、あくまでディザスタームービーに準じ、避難する人々の姿や、為す術も無く蹂躙されて行く街並み、混乱する行政の様子を映し出すに留めている。

 立ち上がった巨大生物と自衛隊のヘリが相対した状況で、人命を優先するシーンは、この巨大生物が撲滅すべき怪獣でなく、受け入れるべき新たな災害であることを示唆する重要なシーンだ。

 結局巨大生物は、その正体も意図も判然としないまま、唐突に海の中へと姿を消す。
人の意思が介在する余地の無い災害だからこそ、人の予測し得ない理由で唐突に消えることもあるのだ。

 巨大生物が這いずり回った跡はまるで竜巻が通り過ぎた跡のようにも見える、傷ついた街は、災害に晒された被災地だ。

 序盤、巨大生物に蹂躙される街を描いたこのパートを終え、人々は新たな日常へと回帰してゆく。

 それは巨大生物のいる日常、新たな災害と寄り添う日常である。
我々が台風の存在を受け入れ暮らしているように、映画の中の人々は巨大生物の存在を受け入れ、それと相対しながら生きる術を模索していくことになる。

その2、”怪獣ゴジラ”

 
 第一パートを終え、物語は新たな局面を迎える。
それまで完全に正体不明だった災害、”巨大生物”の正体が判明するのだ。

 米国からの情報提供によって明らかになったその正体は、大量の核廃棄物汚染に適応し誕生した強大な新生物、名を”ゴジラ”と言った。

この瞬間に、物語はディザスタームービーから怪獣映画へと変容する。
怪獣とは擬獣化された災害である、しかし、獣は獣だ。
現象ではなく生物である限り、人はそれに抗おうとする。
 
 中盤、鎌倉から上陸したゴジラを、多摩川を最終防衛ラインとした自衛隊が迎撃する場面は、本策が怪獣映画であることを表す最も象徴的なシーンである。

 人は台風にミサイルを打たない。
ゴジラが災害から怪獣へと変化したからこそ、彼らは戦いを挑んだのだ。

 結局、自衛隊による攻撃ではゴジラの足は止められず、東京都に侵入したゴジラへと、在日米軍による空爆が実行される。

 しかし、ゴジラという怪獣はこの空爆をも生き延び、短い休止期間に入る。
与えられた期間は二週間、ここから、新たな戦いが始まることになる。

その3、”怪獣ゴジラ”から”生物ゴジラ”へ


 米軍の爆撃を生き延びたゴジラだったが、膨大なエネルギーを消費し、東京のど真ん中でその活動を停止する。
しかし、あくまでその休止は一時的なものであり、2週間後には再び活動を再開するだろうとの予測が示される。

 タイムリミットは二週間、この期間で、人々はゴジラの”生物”としての側面を解析しようと試みる。
即ち何を食べ、何を考え、何の為に生きるのか。

”怪しい獣”だったゴジラを、”ただの生き物”へと変貌させようというのだ。

 この間、人々は死力を尽くし、ゴジラを知ろうとする。
知ることこそが、”怪獣”から神秘を引き剥がし”生物”へと転落させる唯一の方法だと知っているからだ。
そして集合知という人間の持つ最高の力をもってして、ゴジラに抗う。

その結果、ある種の血液凝固剤を経口投与することで、ゴジラの炉心を停止させることが可能だと判明する。
災害の具現だったゴジラが、生きている(そして殺すことが出来る)獣ゴジラへと姿を変える瞬間である。

 その後、国内外の協力を得ながらゴジラに凝固剤を投与する計画が練られ決行される。
多数の犠牲を出しながらも、ゴジラへの凝固剤投与は成功し、未曾有の大災害ゴジラは一個の生物として、完全にではないがその活動を停止することとなる。

 この終盤、映画は怪獣映画の枠を超え、再びディザスタームービーへと立ち返りつつも、その枠を超えた輝きを見せる。
 その輝きこそが怪獣映画の本質といえる部分だと僕は思っている。

では、”それ”とは一体何なのだろうか


その4、変容する映画に通底するものは何か

 
 あくまでゴジラの変容と連動した映画の変容を主として語ってきた為、意図的に無視したが、この映画の主題はむしろそれ以外の部分にあると言っても過言ではない。

 ゴジラが変容し、映画が変容する中で、その対極として変容せず、それらの変化に対応するものが存在するはずだからだ、それこそが本作に通底するものと言えよう。

僕が思うに、それは人間である。

”災害”と相対し、”怪獣”と相対し、”生物”と相対するのはいつだって人間だ。

 本作では、ゴジラをめぐる映画的性質がその状況によって変容し変質するのに対し、ゴジラという存在を前にした人間と国家を描く政治劇は、その性質を一貫させている。

人々は変容する相手を、世界を前に、常に受け入れ、翻弄され、生きようと努力し、死力を尽くす。

 怪獣映画の本質であり、本作の主題ともいえるもの、それは、
  困難に直面した人々が犠牲を受け入れながらも立ち上がり、抗う、痛ましくも眩しい生命の輝き
なのではないだろうか

 本作は、崩壊した東京、屹立する凍結したゴジラ、その存在をバックに人々が新たな生活を始めようとするシーンで終わりを告げる。

 日本という国が、ゴジラという災害を受け止めてなお、立ち上がろうとしている姿こそ、監督がこの映画で描きたかった人間と、そして国家の姿なのかもしれない。


終わりに

 最終的に、軍事力で対応できないゴジラを「生物的アプローチ」で封じ込んだとはいえ、決して災害としてのゴジラの脅威が去ったわけではない。

という終わり方は、怪獣、生物、災害、三つの相を持つゴジラへの回答としてはきわめて美しいものだったように思う。

圧倒的なもの
しかし確かに生きているもの
そして決して逃れられないもの

ゴジラの魅力はそのキャラクターの複雑さと繊細さであるが、本作におけるそのバランスは絶妙である。

 圧倒的強さと生物的な隙と災害的な存在感、矛盾するこれらの魅力を存分に孕んだ本作のゴジラを、僕はとても愛おしいと思う。

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